2011年12月26日月曜日

The first assignment of the negotiation course; Haggling


Negotiation の本の最初に、アメリカには二種類の価格がある、交渉をした価格と交渉をしていない価格、と書かれていた。Macy'sで購入したネクタイに瑕疵があり値引きを要求したことや雑誌の定期購読を長期契約にするからと値引きを要求した例などが書かれている。デパートで買ったネクタイの糸がほつれていたのなら交換の要求をした方がよいのではないか、とか、雑誌の定期購読なら、News WeekTimeのダイレクトメールにはこちらが要求するまでもなく長期割引価格が書かれている。
などとのんびり考えていたら次回までの宿題が示される。

「値切った経験談をレポートにして提出すること。」

ご無体な。生活必需品や食料品の買い物をするのにようやく慣れてきた程度で誰とどうやって何を交渉するの?

困り果てて「私もその宿題を提出しなければなりませんか? アメリカに到着して日が浅いのでできないと思うんですけど」という間の抜けた質問そしたところ、教授は不思議そうに「日本人は値切らないの?」
とたんに周囲のJDたちが、アメリカ人だって値切らない、いや時と場合による、普通はしないだろう、と一斉にしゃべりだす。要するに全員困惑していたのだ。

ということでこのクラスでsurvive するつもりなら数日以内に適当な状況を見つけて値切らないといけなくなった。

日曜日のfarmer's marketorganic tomatoを買うとき安くしてもらえるか尋ねると、売り手は少し不機嫌にもう一つ箱から持って来るように言い、合計額の端数を少し切り捨てた。これだと必要以上の量を買わされただけで、値切ったというお得感はない。でも宿題のレポートにはおもしろいネタかもしれない。とりあえず最初の宿題クリア。

翌週の授業でそれぞれの体験の発表がすごかった。電車の運賃を駅員と交渉した人、本屋で交渉した人、近所のピザ屋の配達の車を見つけ、常連客だと言って乗せて帰ってくれるよう交渉したうえ、その乗車賃まで交渉した人。自分のしたことがものすごく常識の範囲内の行動に思えてきた。

この授業は毎回おそろしい宿題がでる。最初は宿題の内容を聞くたびに無理、と思っていたが、普段とても言い出せないようなことでも、心の中で、相手に対し、ごめんなさい、宿題なんです、と言い訳をしながらだとたいていのことが言える。その後のアメリカでの生活で、この授業をとっていてよかった、と思うことが何度もあった。

2011年12月14日水曜日

A flyer


UC Hastingsに入学手続きをしてしばらくするとProfessor Paulから授業の登録に関するメールが届いた。手続きのほとんどすべてをインターネットでできる便利さとスピード感にアメリカに行くのだと感じた。UC HastingsではLL.M.に優先的に授業を登録させてくれる。優先登録期間後はJDも交えて登録の先着順で、授業の定員をオーバーした場合はキャンセル待ちとなる。

Professor Paulのメールには、Barを受ける人はProperty, Evidence and Constitutionの授業は受けておいた方がよい、その他はBarを気にせず取りたい課目をとるように、せっかくの機会をBarを気にし過ぎて無駄にしないように、という趣旨のことが書かれていた。知的財産権法を中心に時間割を組もうと思っていたので、Intellectual PropertyAnti Trust and Intellectual Propertyの2つは是非時間割にいれたい。せっかくのアドバイスなのでPropertyも登録した。Legal writing and Researchは必須課目となっている。名称からは何の課目なのかよくわからない。

LL.M.の授業は正規の授業の2週間前の8月の2週目に始まり、アメリカ法の概要のレクチャーを受けた。この期間に全員でAlcatraz島見学をしたり、Napa ValleyMondavi家 のお庭でlunch partyをしていただいたりした。Napa ValleyUC Hastingsの卒業生でNapaのワイン醸造家を顧問先に多く持つ弁護士のご招待だった。LL.M.のクラスで誕生日にpartyをする慣習ができたのもこの期間だった。GermanyAlena と共にHayes Valleyで一軒家を借りていたItalyLauraが自宅のお披露目を兼ねてBirthday partyを開いたのが最初の誕生日会だった。

LL.M.のために2週間毎日日替わりで教授たちが現れ、力の入った授業をしてくれる。いずれも面白い。まるで看板教授の顔見世みたいだ。ある日の授業はNegotiationだった。クラスを買い手と売り手に分け、それぞれに指示書が渡される。2人一組で交渉開始。知人宅の古書の間に高値で取引されている古いチラシがはさまれていることに気づいた人が本を買い取りたいと交渉をする、という設定。私は買い手側となった。
チラシに言及せずに買うと後でトラブルになるのではと思うが、さりとて正直に高価なチラシだと言えば値段で折り合わなくなるおそれがある。私の相手は元気な中国娘Yang Yang. 彼女に本の価格を尋ねると指示書の範囲内で問題のない価格だったのでそのまま同意し、それから、本にチラシが入っているのだが、これも本と一緒に引き取るということでよいか、と言うと、彼女はチラシなど彼女の指示書にないので、そんな合意をして後にチラシがないとクレームがつくと困ると言い出し、平行線になった。

最後に全組みの結果とそれぞれに渡されていた指示書の内容を見て、おそらく全員が驚いたと思う。Yang Yangは指示書の8倍の値を提示していた。中国ではそれが相場らしい。TurkeyOkanを相手としたKoreaの弁護士は法外な要求にふりまわされ途方にくれていた。これもTurkeyではお買い物の常識らしい。

あまりの面白さにLL.M.のかなりの数が予定していなかったNegotiation courseを取りたいと登録の変更を始めた。Listeningにもspeakingにも自信がなく、日本にいるときにはnegotiation courseを取るなど考えてもいなかったが、この授業の後、私もnegotiationの正規の授業を取りたくなった。Californiaには無謀という言葉は似合わない。すべてはadventureであり、challengeあるのみである。
というわけで、すでに定員オーバーしていたProfessor Soperのクラスに登録をした。

2011年12月7日水曜日

Apply a law school


日本のForeign legal education の資格でNew York Bar を受験するにはLL.M. を取得する必要がある。http://www.nybarexam.org/Docs/Amended_Rule_520.6_April27_%202011.pdf
留学前に受験要件は知らなかったが、New York Barの資格を取得して帰って来た人たちが皆留学していたので当然アメリカのlaw schoolLL.M.を取得しないと受験できないものだと思い込んでいた。

どこにどんなlaw schoolがあるかもよく知らなかったので、とりあえず留学経験のある人たちに尋ねてみることにした。当時の私が持っていたアメリカのイメージは、BSE検査をしていない牛肉の流通している国、イラクと戦争をしている国、程度だった。そのイメージは、法科大学院で破産法を教えている友人からUC BerkeleyUC Hastingsの教授に会いに行くが一緒に行くかと誘われてCaliforniaに1週間滞在したとき一変した。リスが走りまわる広いcampusと小さなcaferestaurantが数多くある落ち着いたBerkeley、美しく楽しいSan Francisco、その広場ではorganic foodがあふれるfarmer's marketが開かれていた。UC Hastingsの図書館はリニューアルが終わったばかりで美しかった。Organic super marketも充実していて暮らしやすそうだ。ここで暮らせたら楽しいだろうなあ。
UC Hastingsinternational programの担当者Pamelaofficeに行くとまだ今年の願書の締め切りに間に合うわ、と愛想よく用紙をくれた。
間に合うと言われたら出したくなる。帰国後すぐに研究計画書の作成にとりかかり、推薦状の依頼した。

UC Hastingsの願書締め切りは5月1日、TOELF(iBT)の必要点は90
他のlaw schoolと比べると締め切りが遅く、TOELEの要求点がやや低い。UC BerkeleyではiBT100は絶対的な要求で、それを満たしていないと願書を読まない、とのことだった。
IBTで点を取りにくいのはspeaking。これをクリアしないと100は難しい。が、90なら他の分野で点をとればspeakingで点をとれない分をカバーできる範囲だと思う。
LL.M.担当のProfessor Paulは知日派だ。日本の弁護士は法律家としては優秀であるが英語、特にspeakingが苦手というのはよくわかっているらしく、TOEFLE 90というのは日本人の弁護士にとって魅力的だろう、と言っていた。

UC HastingsCaliforniaで最も古いlaw schoolだがLL.M. programを始めたのは遅いとのことで、私が入学した2010年は約30名だったが、その前年の学生数はその半分だったとのこと。人数が少ない分、LL.M.へのめんどうみはとてもよい。

2011年12月5日月曜日

Pearl Harbor


最初にアメリカ人から “Pearl Harbor”という言葉と聞いたのはConstitutionの授業だった。この単語をアメリカ人から聞いたらどんな気がするだろう、と考えたことはあったが、現実に、December 7th, Sunday morning,と聞いたら、そんなことをしたら怒るだろう、というのが正直な感想だった。ただ、どうしてこんなことになったのか、記憶を手繰っても中学、高校の歴史の授業できちんと習った記憶がない。思い出さないだけか?

HawaiiCaliforniaは近い。Spring recessを利用してLaura, Alena, Stephan and MayHawaiiに行って楽しそうだった。というわけで、Hawaiiに行ってみたところPearl Harbor行きのバスを見かけたのでArizonaを見学することにした。

予想以上に充実した施設だった。資料館が2つ。戦争が始まった原因、当時の戦力の比較、攻撃直前の様子から攻撃による被害状況等説明がなされている。アメリカの施設なので一面的な説明がされているのかと思っていたが、入ってみると客観的で公平な説明だと感じた。日系人が多いためだろうか。ロンドン軍縮会議、ABCD包囲網等、高校で習ったのを思い出した。石油。国家の血液であり、これなくしては経済活動を維持することも戦争をすることもできない。アジア、太平洋地域から手を引くか、さもなければ死ねという通告に等しい。西へ西へと拡大してきたアメリカはCaliforniaを手中にし、ついに念願の太平洋へと進出する。

アメリカ側の説明なので、日本がどういう意思決定プロセスで、どういう勝算があって石油なしに軍事的冒険をすることを決断したのかはわからない。開戦時にアメリカを上回る兵力だったということなので、奇襲でアメリカの太平洋艦隊を使用不能にすれば勝てると思ったのだろうか?石油なしで?山本五十六連合艦隊総司令官は、やるからには狙いはHawaiiではない、本土だ、と述べたと解説文にあるが、なんて気宇壮大なんだろう。

全くの不見識で、帝国海軍の攻撃が2波、合計350余機に及び、アメリカ側の死者約2500名(この施設での慰霊は3000名に及ぶ)とは知らなかった。日本からの飛行ルートを見た時、よく飛んだな、と、大変だったね、えらかったね、と抱きしめてねぎらいたいような気持ちになった。そして今なお油を流出させながら沈んでいるArizonaの犠牲者に対してはただただ哀悼の気持ちを抱くばかりである。

Negotiationの教科書には、日本と戦争をする気などさらさらなかった大統領を説得して開戦を決断させたエピソードが載っていた。このときのテーマは「情熱」。Negotiationは冷静に、というのが普通だが、ときには情熱的な説得が功を奏する、という説明の具体例。

太平洋の覇権をかけて本当に戦争をする必要があったのか、双方の犠牲者の数を思うと、そう思う。この戦争に勝った方が太平洋の安寧に責任を持つことになるということだったのだろうな、と思ったが、いずれにしても金のかかる話で、結局のところ現在日米が協力してその任にあたっているのではないだろうか。それならなおさらどうして、と思う。

説明の最後は、アメリカは終戦後、敵国の日本の復興と民主化を援助した、と結ばれている。高齢のアメリカ人女性が“That's America” とつぶやいていた。

2011年12月3日土曜日

Winter in Albany


Albanyは天気はよかったが雪が積もっていた。夏、あれだけ散歩を楽しんだのにこれではあまり歩けない。歩道を歩いていても所々凍っていて、地元の人が気をつけてね、そこは凍っているからこっちを歩いた方がいいよ、と声をかけてくれる。皆さんとても親切だ。ここの人の説明では、店主が自分の店の前の歩道の雪かきをすることになっているが、店が休みだとその前だけ雪かきをしていないので歩道に雪が残り凍るらしい。横断するため歩道から車道に一歩踏み出すと、ずぶずぶと半分溶けた雪の中に入り込んでしまうこともある。

外を歩くのが面倒なので、Capital buildingstaircase を見に行くことにした。http://wikitravel.org/en/Image:Albany_capitol.JPG
驚くほど美しい。
この小さな首都にいると、New York の歴史だけでなく、Americaの歴史に思いを馳せてしまう。Capital buildingNew York Stateの上院と下院の議事堂なのだが、建物の中には歴史的な遺物が展示されている。旗を展示した部屋もある。http://assembly.state.ny.us/Tour/?sec=flag
南北戦争に最も多く兵を出したのもNew York Stateなのだそうだ。歴代州知事の肖像画も飾られている。その中から大統領となった人も少なからずいる。New York Statesの歴史はUnited Statesの歴史でもあるのだろう。

歴史に「たら」とか「れば」はない。けれどアメリカは最初から大きかったわけでも、強かったわけでもない。ひとつ、ひとつの歴史の節目の選択と行動の結果が現在のアメリカなのだと思う。その建国の歩みの足跡がここに保存され、ひっそりと展示されている。

ここの職員ですが案内しましょうか、と声をかけられたので、お願いし、建物内をずいぶんあちこち案内していただいた。Californiaに戻ってからお礼のメールを出すと、Albanyにはnanotechnologyの研究所がある。今度来られたらそちらを案内しましょう、とお返事をいただいた。Albanyの人はCalifornianともいわゆるNew Yorkerとも違った人種のようだ。物静かで親切で気位の高さを内に秘めている。

2011年12月1日木曜日

Swearing in ceremony


Barへ登録するには合格から3年以内にNew York State Supreme Court, Appellate Divisionに願書を提出する必要がある。New York 州内に住所も勤務先もない場合はThird departmentになるとのことだった。 http://www.courts.state.ny.us/ad3/
所在地はAlbany

日本の先生方に無理をお願いして早めにaffidavitを作成して送ってもらったおかげで1月のswearing in ceremonyの定員内に入ることができた。ただ、swearing in だけかと思ったら,通知にはその前にinterviewがあり、それに合格しないとswearing in はできないと書いてあった。Interview...

Hollandの経済学者のBenは少し前にNew Yorkで講演をしてきたと言っていたので、New Yorkでのinterviewswearing in ceremonyにはどのような服装をすればよいか尋ねたら即座に「黒」という答えが返ってきた。理由はわからないがNew York の女性は皆黒い服を来ている、ということだった。とりあえず黒のスーツ、それからコートを準備しよう。

Interviewで何を聞かれるのか林先生に尋ねたら、たいしたことは聞かれないとのことだった。まさかこれで落ちることはないだろうけど、それでもNew York rules of Professional Conductの内容を質問されたらどうしようと心配になって規定をネットで調べたりしていた。
今回はNew York Cityの観光もしたかったのでまずNew York Cityに行って、そこからAmtrakAlbanyに入る計画をたてた。Interviewに指定された日はswearing in ceremonyの前日。試験は7月末の夏だったが今回は1月、真冬。冬支度がいる。San Franciscoの冬は雨季でよく雨が降るが気温が10度を下回ることは少ない。ということでたいした冬支度は持っていない。しかもAlbanyは雪が多く、NYCより寒いらしい。とんでもない場所に行くことになったのかもしれないと不安になってきた。

クリスマス休暇中guest houseに同居していたのはBerkeleyに空手を習いに来た国連職員のLaura(綴りはLL.M.の同級生のItaly 及びSwissLauraと同じだが発音が異なる)。Logisticsの専門家でStanford大学で教えていたとのことだった。彼女にAmtrakAlbanyに行くことを話すと、雪でAmtrakが止まるようならすぐにバスを手配しろと言ってくれた。ますます気が滅入る。実際swearing in ceremonyの前の週は大雪のため東海岸の空港は混乱していたし、New York から戻ってきた翌週はAlbany行きのAmtrakはポイントが凍りついたため運行休止になったりしていた。

Interview に指定された時間が午前中だったため、その前日の夜Albanyに行くことにした。Albanyで2泊。Pen Station Albany行きのAmtrakに乗ると、ほぼ満席だった。周囲に座っているの人たちの多くはswearing in ceremonyに出る人たちなのかな、と思った。列車はHudson river 沿いを行く。みごとな雪景色なのだろうが、日が暮れたため窓の外は真っ暗。私の頭の中には夏のAlbanyの思い出しかない。一体どんな風景になっているのだろう。