2011年12月26日月曜日

The first assignment of the negotiation course; Haggling


Negotiation の本の最初に、アメリカには二種類の価格がある、交渉をした価格と交渉をしていない価格、と書かれていた。Macy'sで購入したネクタイに瑕疵があり値引きを要求したことや雑誌の定期購読を長期契約にするからと値引きを要求した例などが書かれている。デパートで買ったネクタイの糸がほつれていたのなら交換の要求をした方がよいのではないか、とか、雑誌の定期購読なら、News WeekTimeのダイレクトメールにはこちらが要求するまでもなく長期割引価格が書かれている。
などとのんびり考えていたら次回までの宿題が示される。

「値切った経験談をレポートにして提出すること。」

ご無体な。生活必需品や食料品の買い物をするのにようやく慣れてきた程度で誰とどうやって何を交渉するの?

困り果てて「私もその宿題を提出しなければなりませんか? アメリカに到着して日が浅いのでできないと思うんですけど」という間の抜けた質問そしたところ、教授は不思議そうに「日本人は値切らないの?」
とたんに周囲のJDたちが、アメリカ人だって値切らない、いや時と場合による、普通はしないだろう、と一斉にしゃべりだす。要するに全員困惑していたのだ。

ということでこのクラスでsurvive するつもりなら数日以内に適当な状況を見つけて値切らないといけなくなった。

日曜日のfarmer's marketorganic tomatoを買うとき安くしてもらえるか尋ねると、売り手は少し不機嫌にもう一つ箱から持って来るように言い、合計額の端数を少し切り捨てた。これだと必要以上の量を買わされただけで、値切ったというお得感はない。でも宿題のレポートにはおもしろいネタかもしれない。とりあえず最初の宿題クリア。

翌週の授業でそれぞれの体験の発表がすごかった。電車の運賃を駅員と交渉した人、本屋で交渉した人、近所のピザ屋の配達の車を見つけ、常連客だと言って乗せて帰ってくれるよう交渉したうえ、その乗車賃まで交渉した人。自分のしたことがものすごく常識の範囲内の行動に思えてきた。

この授業は毎回おそろしい宿題がでる。最初は宿題の内容を聞くたびに無理、と思っていたが、普段とても言い出せないようなことでも、心の中で、相手に対し、ごめんなさい、宿題なんです、と言い訳をしながらだとたいていのことが言える。その後のアメリカでの生活で、この授業をとっていてよかった、と思うことが何度もあった。

2011年12月14日水曜日

A flyer


UC Hastingsに入学手続きをしてしばらくするとProfessor Paulから授業の登録に関するメールが届いた。手続きのほとんどすべてをインターネットでできる便利さとスピード感にアメリカに行くのだと感じた。UC HastingsではLL.M.に優先的に授業を登録させてくれる。優先登録期間後はJDも交えて登録の先着順で、授業の定員をオーバーした場合はキャンセル待ちとなる。

Professor Paulのメールには、Barを受ける人はProperty, Evidence and Constitutionの授業は受けておいた方がよい、その他はBarを気にせず取りたい課目をとるように、せっかくの機会をBarを気にし過ぎて無駄にしないように、という趣旨のことが書かれていた。知的財産権法を中心に時間割を組もうと思っていたので、Intellectual PropertyAnti Trust and Intellectual Propertyの2つは是非時間割にいれたい。せっかくのアドバイスなのでPropertyも登録した。Legal writing and Researchは必須課目となっている。名称からは何の課目なのかよくわからない。

LL.M.の授業は正規の授業の2週間前の8月の2週目に始まり、アメリカ法の概要のレクチャーを受けた。この期間に全員でAlcatraz島見学をしたり、Napa ValleyMondavi家 のお庭でlunch partyをしていただいたりした。Napa ValleyUC Hastingsの卒業生でNapaのワイン醸造家を顧問先に多く持つ弁護士のご招待だった。LL.M.のクラスで誕生日にpartyをする慣習ができたのもこの期間だった。GermanyAlena と共にHayes Valleyで一軒家を借りていたItalyLauraが自宅のお披露目を兼ねてBirthday partyを開いたのが最初の誕生日会だった。

LL.M.のために2週間毎日日替わりで教授たちが現れ、力の入った授業をしてくれる。いずれも面白い。まるで看板教授の顔見世みたいだ。ある日の授業はNegotiationだった。クラスを買い手と売り手に分け、それぞれに指示書が渡される。2人一組で交渉開始。知人宅の古書の間に高値で取引されている古いチラシがはさまれていることに気づいた人が本を買い取りたいと交渉をする、という設定。私は買い手側となった。
チラシに言及せずに買うと後でトラブルになるのではと思うが、さりとて正直に高価なチラシだと言えば値段で折り合わなくなるおそれがある。私の相手は元気な中国娘Yang Yang. 彼女に本の価格を尋ねると指示書の範囲内で問題のない価格だったのでそのまま同意し、それから、本にチラシが入っているのだが、これも本と一緒に引き取るということでよいか、と言うと、彼女はチラシなど彼女の指示書にないので、そんな合意をして後にチラシがないとクレームがつくと困ると言い出し、平行線になった。

最後に全組みの結果とそれぞれに渡されていた指示書の内容を見て、おそらく全員が驚いたと思う。Yang Yangは指示書の8倍の値を提示していた。中国ではそれが相場らしい。TurkeyOkanを相手としたKoreaの弁護士は法外な要求にふりまわされ途方にくれていた。これもTurkeyではお買い物の常識らしい。

あまりの面白さにLL.M.のかなりの数が予定していなかったNegotiation courseを取りたいと登録の変更を始めた。Listeningにもspeakingにも自信がなく、日本にいるときにはnegotiation courseを取るなど考えてもいなかったが、この授業の後、私もnegotiationの正規の授業を取りたくなった。Californiaには無謀という言葉は似合わない。すべてはadventureであり、challengeあるのみである。
というわけで、すでに定員オーバーしていたProfessor Soperのクラスに登録をした。

2011年12月7日水曜日

Apply a law school


日本のForeign legal education の資格でNew York Bar を受験するにはLL.M. を取得する必要がある。http://www.nybarexam.org/Docs/Amended_Rule_520.6_April27_%202011.pdf
留学前に受験要件は知らなかったが、New York Barの資格を取得して帰って来た人たちが皆留学していたので当然アメリカのlaw schoolLL.M.を取得しないと受験できないものだと思い込んでいた。

どこにどんなlaw schoolがあるかもよく知らなかったので、とりあえず留学経験のある人たちに尋ねてみることにした。当時の私が持っていたアメリカのイメージは、BSE検査をしていない牛肉の流通している国、イラクと戦争をしている国、程度だった。そのイメージは、法科大学院で破産法を教えている友人からUC BerkeleyUC Hastingsの教授に会いに行くが一緒に行くかと誘われてCaliforniaに1週間滞在したとき一変した。リスが走りまわる広いcampusと小さなcaferestaurantが数多くある落ち着いたBerkeley、美しく楽しいSan Francisco、その広場ではorganic foodがあふれるfarmer's marketが開かれていた。UC Hastingsの図書館はリニューアルが終わったばかりで美しかった。Organic super marketも充実していて暮らしやすそうだ。ここで暮らせたら楽しいだろうなあ。
UC Hastingsinternational programの担当者Pamelaofficeに行くとまだ今年の願書の締め切りに間に合うわ、と愛想よく用紙をくれた。
間に合うと言われたら出したくなる。帰国後すぐに研究計画書の作成にとりかかり、推薦状の依頼した。

UC Hastingsの願書締め切りは5月1日、TOELF(iBT)の必要点は90
他のlaw schoolと比べると締め切りが遅く、TOELEの要求点がやや低い。UC BerkeleyではiBT100は絶対的な要求で、それを満たしていないと願書を読まない、とのことだった。
IBTで点を取りにくいのはspeaking。これをクリアしないと100は難しい。が、90なら他の分野で点をとればspeakingで点をとれない分をカバーできる範囲だと思う。
LL.M.担当のProfessor Paulは知日派だ。日本の弁護士は法律家としては優秀であるが英語、特にspeakingが苦手というのはよくわかっているらしく、TOEFLE 90というのは日本人の弁護士にとって魅力的だろう、と言っていた。

UC HastingsCaliforniaで最も古いlaw schoolだがLL.M. programを始めたのは遅いとのことで、私が入学した2010年は約30名だったが、その前年の学生数はその半分だったとのこと。人数が少ない分、LL.M.へのめんどうみはとてもよい。

2011年12月5日月曜日

Pearl Harbor


最初にアメリカ人から “Pearl Harbor”という言葉と聞いたのはConstitutionの授業だった。この単語をアメリカ人から聞いたらどんな気がするだろう、と考えたことはあったが、現実に、December 7th, Sunday morning,と聞いたら、そんなことをしたら怒るだろう、というのが正直な感想だった。ただ、どうしてこんなことになったのか、記憶を手繰っても中学、高校の歴史の授業できちんと習った記憶がない。思い出さないだけか?

HawaiiCaliforniaは近い。Spring recessを利用してLaura, Alena, Stephan and MayHawaiiに行って楽しそうだった。というわけで、Hawaiiに行ってみたところPearl Harbor行きのバスを見かけたのでArizonaを見学することにした。

予想以上に充実した施設だった。資料館が2つ。戦争が始まった原因、当時の戦力の比較、攻撃直前の様子から攻撃による被害状況等説明がなされている。アメリカの施設なので一面的な説明がされているのかと思っていたが、入ってみると客観的で公平な説明だと感じた。日系人が多いためだろうか。ロンドン軍縮会議、ABCD包囲網等、高校で習ったのを思い出した。石油。国家の血液であり、これなくしては経済活動を維持することも戦争をすることもできない。アジア、太平洋地域から手を引くか、さもなければ死ねという通告に等しい。西へ西へと拡大してきたアメリカはCaliforniaを手中にし、ついに念願の太平洋へと進出する。

アメリカ側の説明なので、日本がどういう意思決定プロセスで、どういう勝算があって石油なしに軍事的冒険をすることを決断したのかはわからない。開戦時にアメリカを上回る兵力だったということなので、奇襲でアメリカの太平洋艦隊を使用不能にすれば勝てると思ったのだろうか?石油なしで?山本五十六連合艦隊総司令官は、やるからには狙いはHawaiiではない、本土だ、と述べたと解説文にあるが、なんて気宇壮大なんだろう。

全くの不見識で、帝国海軍の攻撃が2波、合計350余機に及び、アメリカ側の死者約2500名(この施設での慰霊は3000名に及ぶ)とは知らなかった。日本からの飛行ルートを見た時、よく飛んだな、と、大変だったね、えらかったね、と抱きしめてねぎらいたいような気持ちになった。そして今なお油を流出させながら沈んでいるArizonaの犠牲者に対してはただただ哀悼の気持ちを抱くばかりである。

Negotiationの教科書には、日本と戦争をする気などさらさらなかった大統領を説得して開戦を決断させたエピソードが載っていた。このときのテーマは「情熱」。Negotiationは冷静に、というのが普通だが、ときには情熱的な説得が功を奏する、という説明の具体例。

太平洋の覇権をかけて本当に戦争をする必要があったのか、双方の犠牲者の数を思うと、そう思う。この戦争に勝った方が太平洋の安寧に責任を持つことになるということだったのだろうな、と思ったが、いずれにしても金のかかる話で、結局のところ現在日米が協力してその任にあたっているのではないだろうか。それならなおさらどうして、と思う。

説明の最後は、アメリカは終戦後、敵国の日本の復興と民主化を援助した、と結ばれている。高齢のアメリカ人女性が“That's America” とつぶやいていた。

2011年12月3日土曜日

Winter in Albany


Albanyは天気はよかったが雪が積もっていた。夏、あれだけ散歩を楽しんだのにこれではあまり歩けない。歩道を歩いていても所々凍っていて、地元の人が気をつけてね、そこは凍っているからこっちを歩いた方がいいよ、と声をかけてくれる。皆さんとても親切だ。ここの人の説明では、店主が自分の店の前の歩道の雪かきをすることになっているが、店が休みだとその前だけ雪かきをしていないので歩道に雪が残り凍るらしい。横断するため歩道から車道に一歩踏み出すと、ずぶずぶと半分溶けた雪の中に入り込んでしまうこともある。

外を歩くのが面倒なので、Capital buildingstaircase を見に行くことにした。http://wikitravel.org/en/Image:Albany_capitol.JPG
驚くほど美しい。
この小さな首都にいると、New York の歴史だけでなく、Americaの歴史に思いを馳せてしまう。Capital buildingNew York Stateの上院と下院の議事堂なのだが、建物の中には歴史的な遺物が展示されている。旗を展示した部屋もある。http://assembly.state.ny.us/Tour/?sec=flag
南北戦争に最も多く兵を出したのもNew York Stateなのだそうだ。歴代州知事の肖像画も飾られている。その中から大統領となった人も少なからずいる。New York Statesの歴史はUnited Statesの歴史でもあるのだろう。

歴史に「たら」とか「れば」はない。けれどアメリカは最初から大きかったわけでも、強かったわけでもない。ひとつ、ひとつの歴史の節目の選択と行動の結果が現在のアメリカなのだと思う。その建国の歩みの足跡がここに保存され、ひっそりと展示されている。

ここの職員ですが案内しましょうか、と声をかけられたので、お願いし、建物内をずいぶんあちこち案内していただいた。Californiaに戻ってからお礼のメールを出すと、Albanyにはnanotechnologyの研究所がある。今度来られたらそちらを案内しましょう、とお返事をいただいた。Albanyの人はCalifornianともいわゆるNew Yorkerとも違った人種のようだ。物静かで親切で気位の高さを内に秘めている。

2011年12月1日木曜日

Swearing in ceremony


Barへ登録するには合格から3年以内にNew York State Supreme Court, Appellate Divisionに願書を提出する必要がある。New York 州内に住所も勤務先もない場合はThird departmentになるとのことだった。 http://www.courts.state.ny.us/ad3/
所在地はAlbany

日本の先生方に無理をお願いして早めにaffidavitを作成して送ってもらったおかげで1月のswearing in ceremonyの定員内に入ることができた。ただ、swearing in だけかと思ったら,通知にはその前にinterviewがあり、それに合格しないとswearing in はできないと書いてあった。Interview...

Hollandの経済学者のBenは少し前にNew Yorkで講演をしてきたと言っていたので、New Yorkでのinterviewswearing in ceremonyにはどのような服装をすればよいか尋ねたら即座に「黒」という答えが返ってきた。理由はわからないがNew York の女性は皆黒い服を来ている、ということだった。とりあえず黒のスーツ、それからコートを準備しよう。

Interviewで何を聞かれるのか林先生に尋ねたら、たいしたことは聞かれないとのことだった。まさかこれで落ちることはないだろうけど、それでもNew York rules of Professional Conductの内容を質問されたらどうしようと心配になって規定をネットで調べたりしていた。
今回はNew York Cityの観光もしたかったのでまずNew York Cityに行って、そこからAmtrakAlbanyに入る計画をたてた。Interviewに指定された日はswearing in ceremonyの前日。試験は7月末の夏だったが今回は1月、真冬。冬支度がいる。San Franciscoの冬は雨季でよく雨が降るが気温が10度を下回ることは少ない。ということでたいした冬支度は持っていない。しかもAlbanyは雪が多く、NYCより寒いらしい。とんでもない場所に行くことになったのかもしれないと不安になってきた。

クリスマス休暇中guest houseに同居していたのはBerkeleyに空手を習いに来た国連職員のLaura(綴りはLL.M.の同級生のItaly 及びSwissLauraと同じだが発音が異なる)。Logisticsの専門家でStanford大学で教えていたとのことだった。彼女にAmtrakAlbanyに行くことを話すと、雪でAmtrakが止まるようならすぐにバスを手配しろと言ってくれた。ますます気が滅入る。実際swearing in ceremonyの前の週は大雪のため東海岸の空港は混乱していたし、New York から戻ってきた翌週はAlbany行きのAmtrakはポイントが凍りついたため運行休止になったりしていた。

Interview に指定された時間が午前中だったため、その前日の夜Albanyに行くことにした。Albanyで2泊。Pen Station Albany行きのAmtrakに乗ると、ほぼ満席だった。周囲に座っているの人たちの多くはswearing in ceremonyに出る人たちなのかな、と思った。列車はHudson river 沿いを行く。みごとな雪景色なのだろうが、日が暮れたため窓の外は真っ暗。私の頭の中には夏のAlbanyの思い出しかない。一体どんな風景になっているのだろう。

2011年11月30日水曜日

The result notice from BOLE


New York Bar Exam の合格発表は「11月の半ば」(mid-November)となっていて日は特定されていない。当時San Franciscoの法律事務所で働いており、ボスからときどき発表はまだなの、と言われていた。
知りたいような、知りたくないような。そうしているとBarbriからメールが届き、確率から合格の可能性の方が高い、しかし万一のことがあればBarbriに電話して今後の勉強方法を相談するように、といった趣旨のことが書いてあった。Barbriは、不合格の場合、同一の州の2月の受験のための授業を無料で提供している。またそのメールには、BOLEは今週中には合否の公表をしないだろう、とも書いてあった。

今週中の発表はない、というBarbriのメールで少なくともその週末まではどきどきせずにメールチェックができる、と思っていたら金曜の夕方facebook経由で友人から “Congratulations” のメッセージが届いていた。どうして?と尋ねると、ひとつの記事を教えてもらった。その記事によると、金曜の朝、BOLEwebsiteに合格者の氏名のリストが公表され、すぐに消えた、しかし氏名のコピーを取っていた人がいて、そのリストがジャーナリストの手に渡った。そのジャーナリストがBOLEに問い合わせると公表していないとの答えだったが、リストを見たところ何人か知っている受験生の名があり、真実らしいと思ったのでネット上でいきさつを説明してリストを公開した、となっていた。その後BOLEが合格通知メールを受験生に送ったらしい。Internet ってこわいなあ。
というかBOLEといえどもアメリカ人で日本の官僚のようなきっちりした仕事は苦手なのか。

当時Berkeleyguest houseに住んでいて、同居人はAustralia人 の宇宙物理学者とFranceComputer scientist 夫婦だった。彼らに合格を祝福してもらった。またその少し前まで同居人だったHolland 人の経済学者もBerkeley にいたので彼にも合格したことを連絡すると翌日の土曜日にguest houseに現れて近所のお気に入りのcafe, Berkeley Espresso で合格を祝ってもらった。

2011年11月29日火曜日

Notary Public


Affidavitをアメリカ国内で作成するのはとても簡単だ。書類に必要事項を記載し、街のいたる所にいるnotary publicの所に持って行って手数料を払って本人確認をしてもらえばよい。http://www.nycourts.gov/ad3/Admissions/GoodMoralCharacter.PDF

なお、affidavitは内容について知っている限り間違いがないことを宣誓(swear)して作成するものである。いつも思うのだけど、一体何に誓っているのだろう?キリスト教の神様?異教徒はどうするのだろう。無神論者は?日本で宣誓することにはどんな意味があるのだろう?
もっとも日本では裁判所に提出する陳述書には内容の真実性について宣誓さえされていない。嘘を書いてあるという前提で読めということか?それで内容が嘘でも誰も気にしないのか?陳述書を出すと証人尋問の意味が薄れるとか言って出さない弁護士もいる。そんなことを言うなら徹底した証拠開示を前提にしてほしい。証拠は隠す、陳述書は出さない、これでは裁判は八卦みたいなものに見えてくる。

それはともかく、このAffidavit, 合衆国の領域外で作成するときには担当官の証明書を添付せよとなっている。やっかいなことだ。日本で似たものと言えば公証人が作成する公正証書だが、公証人とnotary publicではかなりニュアンスが違う。日本の公証人は引退した裁判官や検察官がなっていることが多いがnotary publicはどんな田舎町でもdrug storet店主などが資格を取得して取り扱ってくれるらしい。Professor Dodgeの “Transnational Business Problems” によれば、notary publicは非専門家(non-professional persons)、事務員(secretaries)、店主(shopkeepers),etc notary sealを押すだけの仕事とされ、ドイツ、フランス、メキシコの類似の名称の職業と区別するようにと記載されている。なお、Californiaではメキシコの “notarios” と混同しないように、アメリカのnotary publicがスペイン語表記をするのを禁じているそうだ。(Detlev F, Vagts, William S. Dodge & Harold Hongju Koh,Transnational Business Problems 12 (4th ed, 2008))

公証人の手数料もさることながら、そもそも英文で公証してくれる公証人を探せるだろうか、とほぼ絶望的な気がしたとき、New York 州弁護士の資格を取得している日本人に聞けば方法がわかるのではないかと思いつき、林邦彦弁護士に問い合わせをしてみた。答えは予想外のものだった。
「アメリカ領事館にnotary serviceがある。」http://osaka.usconsulate.gov/service.html

確かに書式の文面をよく読むと、 “..outside the United States, its commonwealths, territories,or possessions..”となっている。アメリカ領事館はこのいずれかに該当するのだろう。

かくして少なからぬ数の先生方にアメリカ領事館に行っていただくことになった。中にはこのためだけにパスポートを申請してくださった先生もいらっしゃった。私は多くの人たちのご好意に支えられてaffidavitを揃えることができた。

2011年11月28日月曜日

Registration Procedure



試験の翌日、どこか閑散とした帝都(The Capital City of the Empire State)でのんびり過ごし、Washington DC 経由で深夜San FranciscoMayと二人で帰った。その週末にはMayWendyは慌ただしく帰国した。中国の司法試験の願書受付に間に合うかどうか、間に合えば数カ月後のChinese Bar Examinationを受験すると言っていた。Mayとは1月のswearing in ceremony Albanyで会おうと約束をした。
その後まもなくStephanも帰国し、Yang Yang, SherrySan Franciscoを離れた。San Franciscoは寂しい街となった。
Bar Examinationが終わると猶予されていた寮の明け渡しをしなければならない。私は寮から1キロほど離れたAlamo Square近くの Victorian Houseに部屋を借りた。

2010San Francisco8月は霧に包まれ冷たい雨が降っていた。あまりに寒いしすることもなかったので太陽を求めてGrand Canyon に行くことにした。合格発表は11月。それまでしばらくBarのことは忘れていられると思っていた。
Las Vegasをベースにして、一週間ほどColorado riverでのraftingGrand Canyonを散歩したり、Las Vegasを観光したりしてSan Franciscoに戻った。

San Franciscoに戻り、一人でWestfield の地下で昼食をとりながら、何の気なしにメールのチェックをすると、New Yorkからメールが届いていて、何かを提出しろと書いてある。が添付ファイルをがうまく開かない。受験手続き書類に不備があったというのであればどうしよう、と不安になり、UC HastingsLibrarycomputer labに急いだ。

Labでメールの内容と添付ファイルを読んで唖然とした。
1月の宣誓式に出席できる数には制限があり、登録書類の先着順で出席者を決めるので、登録書類の準備を始めるように、との指示だった。しかも要求されている書類のほとんどはaffidavit。今までの法律関係の職場の上司affidavits、2年以上のつきあいのある法律家2
名のaffidavits。どう考えても日本の弁護士に作成を依頼しなければならない。しかし日本でどうやってアメリカのaffidavitを作成できるのだろう?

Photo; Desert tea I bought at a souvenir shop in the Grand Canyon, At the kitchen of the Victorian House 

2011年11月27日日曜日

Summer has come in San Francisco!



6月になるとSan Franciscodown townにはMarket Street沿いに7色の旗が飾られる。そして6月最後の日曜はSan Francisco最大の祭りと言われるPride Parade. パレードが近づいて来る様子にそわそわしていたらMayが行こうと。http://sfpride.org/?ifr=parade/

Just marriedとプラカードを掲げたsame sex marriage coupleたちに混じって、結婚40年目と掲げたcoupleが手をつないで歩いていた。とても感じのよいcoupleで、だけど40年というと当時は大変だっただろうなと思う。いや、今だって差別がなくなっているわけではない。どういう文脈でだったかは忘れたが、case bookには長年活動をしていたBoy scoutから除名されてしまった青年の事例があったし、子供が学校でいじめられて自殺に追い込まれるのを防止したいと議会に訴えている人の演説のビデオも友人に教えられて見た。ハンバーガー屋の中で人前で公然と女の子二人からひどい暴行を受けているtransgender の子供の映像もネットで見た。どうして自分と違うという理由で排除しなければならないのだろう?
この日、Civic Center前の広場では屋台が並び、無料で景品の当たるゲームもしている。強い日差しで気温は高め。Bay Areaではこのころが一番夏らしい。祭りのテーマカラーの7色のビーズのネックレスを買い、結局夕方までうろうろ遊んでいた。

そして7月4日はIndependent Day. San FranciscoではPier で花火があがる。これは見たい。http://sanfrancisco.about.com/od/sfevents/a/San-Francisco-July-4-Events.htm
ということで友人たちと誘いあわせて出かけることにした。どのバスが花火のスポットの近くに行くのか、と考えていたら行き先表示が “Firework”となっているバスが来た。わかりやすい。海辺で見た花火はとてもきれいだった。国旗の色の赤と青と白の花火が印象的だった。帰りはもうバスはない。大勢の人と一緒にぞろぞろと街へ向かって歩いた。UC Hastingsの寮はこういう時でもそこそこ歩けば帰れるという便利な場所にある。Stephanは歩きながらpropertyの用語のNew YorkCommon Lawの使い分けの説明をしていたが、こんな細かいことは試験に出ないだろう、とこの時点では安易に考えていた。

Paradeも終わり、花火も終わり、試験まで残り約3週間。いよいよ準備の最終段階に入った気がした。

2011年11月26日土曜日

Taking the exam in NYC


散歩の途中で立ち寄った書店で「図書館ライオン」(“Library Lion”)の絵本を見つけ、
New York Public Library の書店でこの本に出会ったとき、欲しいなあと思ったのを思い出した。http://www.michelleknudsen.com/library_lion_77788.htm
日本語訳がでているとは知らなかった。

StephanOkanNew York Cityを会場に選び、そのときに撮影した写真の中にNew York Public Libraryの豪華な天井画の写真があったので、後日、New York City ではPublic Libraryで勉強していたのかと尋ねたら、行ってみたけどうるさかったので別の場所にいたとのこと。一体この騒々しい街のどこで勉強していたのだろう?

StephanOkanはどちらも合格しているし、あまり受験会場については語ってくれなかったのだが、7月末のNew York Cityは暑く、会場となったホテルの中は冷房がききすぎていて、温度差が大きくので身体的にきつかったと言っていた。

New York Public Libraryは素敵な場所だし、入り口のLionも大好きなんだけど、受験地としてはAlbanyの方がよさそうに思うなあ。

2011年11月25日金曜日

MBE(The multistate examination)


New York Bar examinationの2日目はMBEhttp://www.ncbex.org/multistate-tests/mbe/
MBEmultiple choice試験で200問中190問が採点対象となる。出題範囲はConstitutional Law, Contracts, Criminal Law and Procedure, Evidence, Real Property,Torts. ContractsTorts 33問、Constitutional Law, Criminal Law and Procedure, Evidence,Real Propertyが各31問。午前3時間、午後3時間の体力と集中力の勝負。途中で何が起ころうともコンスタントに問題を読んで答えるという神経が要求される。

問題は課目別ではなくランダムに並んでいる。解答はNew York法ではなくアメリカ法の一般原則に基づいて答える。New York 法がアメリカ法の一般原則とは異なることがあり、これらはNew York distinction と呼ばれていた。初日はNew York dayとしてmultiple choice essay questionsNew York 法に基づいて解答し、2日目のMBEは一般原則で答える。といっても例えば登記と優劣など、州によって制度が異なるようなものは、問題文の中にどの制度に基づいて答えるかを指定してある。

20107月のMBEにはforeclosure の優先関係を問うものが多かった。おそらく現実に多数起きているのだろうと思っていたら、銀行が抵当権を次々に実行していることが社会問題となっていた。抵当権の先後関係はむつかしくはないのだが当事者が多数で時系列に事象が並べられているので問題文が長い。時間をとられるのが難点だ。開始後しばらくは順調なペースだったので少しペースを落としても大丈夫かなと思っていたら中程に長文の問題が多く、このペースでは制限時間内に全問終わらないと思った時点で軽いパニックを起こした。私が英文を理解するには精神的に落ち着いている必要がある。パニックを起こした時点で問題文の意味が不明になったので、長文の問題を4問くらいとばすことにした。そうするとちょうど予定していたペースに追いついたので落ち着いた。数問とばしたことは無視することにした。最後にCでも塗りつぶしておけばいいや。
最後まで解答し、飛ばした問題に戻ったところ、落ち着いて読めばたいしたことが書いてあるわけではなかった。最後に1問、数回読んでも意味がよくわからないのがあったのでそれはCにしておいた。

New York Barの合格は人数ではなく点数で決まる。合計点なので、どこで点をとってもいいわけだが、Barbriでは一応の合格の目安としてMBE60%くらいと言っていた。私の場合、essay questionsはともかくMPTで全く点が取れる気がしなかったので、MBEで取れるだけの点は取っておこうと思っていた。最終的に問題の難易度によって配点に差をつけて補正するようで結果は整数値ではない。結果が届くと70%を超える得点を取得していた。

2011年11月24日木曜日

Barbri method


CommencementのころBarBriから本が届いた?が友人たちの間で挨拶のようになっていた。New York Bar courseは東部でのlivecourseから1週間遅れで始まる。San Franciscoでは525日火曜日(2010)から始まった。アメリカでは何かをするのに火曜日というのが多い。例えば選挙は火曜日。日曜日は教会に行かないといけないので、月曜に選挙地まで移動するから火曜日と聞いたように思うのだが、Barbriが火曜日にスタートするのはNew York Bar Examが火曜に始まるからそこから逆算してのことだろうか? そしてBar Examが火曜日というのは選挙日と同じ理由だからだろうか?

Barbriでは講義と宿題の予定表を配布してくれる。分厚い本が何冊も届いたが、半分は宿題の問題集だ。解説本が何冊か入っていたが講義の際、主に使用するのはノート用の本。これは各課目の重要事項をまとめてあるが、文章のところどころが空欄になっていて、講師がこの文章を読み上げるときに空欄を埋める方式になっている。受講生が寝ないように、かつ講師の説明の筋道を聞き間違わないように、との配慮だろうか?授業の後でこのノートをさらにコンパクトにしたメモを自分で作成してそれを試験直前に読み返すようにとの指示があった。分厚い解説書の方は深く知りたいときだけ読むようにとのことだった。
私にとっては英語のhearing lessonみたいで楽しい。Barの勉強をしながらhearingも練習できる、一石二鳥のような講義。のはずなのだが、聞き損なうとやっかいだ。最初はMayIrene にノートを見せてもらっていたが、なぜか聞き落とす箇所はだいたい同じ。そこで近くに座っているnative speakerたちにノートを見せてともらうことにした。
最初の週末の宿題MBE(The multiple bar examination)tortの問題集で、各自ビデオの解説を見ておくようにとのことだったので、Stephanleadershipを発揮し、みんなで一緒に宿題をしようと土曜日に図書館で集合する。このときのメンバーの母国はGermany, Turkey, China and Japan.
最初は制限時間内に終わらないので長めに時間をとって解答し、ビデオを見ながら採点する。多分このメンバーは誰もtortの授業を聞いていなかったと思う。時に不可解な解説内容に自国の法規範と違うなどと文句をいいながら、それでも繰り返しているうちにtortの解答の要領がつかめるようになってきた。
その後宿題をこんな時間のかかる方法でする余裕がなくなったが、このときのメンバーはよく一緒に勉強していた。近くにいるとわからないことがあったら誰かに聞けるし、Stephanは分厚い解説書を読んで説明してくれるし。

Essay questionの解答を書こうとすると言いたいことを表現するための適切な単語がすぐに出てこないことがわかった。特に民法になると日本語でまず解答を思いつき、それを表現しようとすると日本語が硬すぎて対応する英語の単語が思い浮かばない。そこで白紙のカードを100枚購入し使えそうな単語や表現などを書きだすことにした。その他、覚えておきたいことはどんどんカードに書いた。30分あれば1枚カードが作れるし、10分あればカードを取り出して読める。Barbriでもカードの作成は勧めており、Subwayでも取り出して眺めていること、と言っていた。どうして地下鉄で?とそのときは思った。今から考えるとsandwich屋さんか?いややはり地下鉄に乗っているときのことか?両方?

ノートをまとめ、カードを作り、宿題をする。時間はいくらでも必要で、カードを作る作業は飽きない。時間制限があり、試験のプレッシャーがあるのでいつもちょっと高揚した気分で楽しい。ときに勉強に疲れた様子のJDから、あなた2つ目のBarでしょう?既にひとつ受かっているからいいわねえ、と言われたりした。私にすればJDは英語に不自由してないからいいなあ、と思っていたのだが、言われてみればlawyerになれるかどうかがかかっている彼らに比べ、私は落ちたって日本の弁護士だ。もっとも落ちたくない、いや日本の弁護士として落ちるわけにはいかない、というプレッシャーはかかっている。受かって日本法の方が精緻で進んだ法であることを証明してやる。

2011年11月23日水曜日

Security policy



試験当日に会場へ持ち込める物は極めて制限されている。http://www.nybarexam.org/Docs/secpolicy.pdf
これを見るとわかるように制限列挙なのだ。しかも所持品は1ガロンの容量の透明な袋1つにいれておかなければならない。Barbriでは試験前に袋を配布していた。なおこれとは別にLaptop bagの持ち込みは認められている。
電子機器はZero Tolerance Policy。デジタルの腕時計もだめ。

BOLEの所持品制限の告示はとりあえず言っているだけ、というレベルではなく、入り口で所持品検査をする。そのため初日に会場についたら既に大勢の人が会場前で列を作っていた。検査に時間がかかるようだ。以後早めに会場に着くようにした。中で待っている方が外で並んでいるよりましだ。

ボールペンは黒が青のみ。それも筆記試験のある初日のみ。マークシート試験の2日目は筆記具はNo.2 pencilのみ。初日が終わってからホテルで注意書きを読み返してこれに気づいたので2日目はボールペンを持たずに行ったが、知らなかった人が結構いたようだ。所持品検査でひっかかったボールペンが、試験終了後出口付近の机の上にずらりと並べられていた。同種のペンが多いのでどれが自分のか見分けなんかつかないだろうな。
マーカー等のハイライトの持ち込みも禁止。Barbriの講師は、青のボールペンをマーカーとして使用すればよいと言っていたので試験前に準備した。なおCalifornia Barを受けた友人はCalifornia ではマーカーの使用が認められていると言っていた。

初日に入り口で本人確認をすると紙製のwristbandが渡され、2日間装着をしておくようにと言われる。以後は入場の際に腕を挙げて装着していることを示す。シャワーの際に破れたらどうしようと思ったが試験終了後に引きちぎるのがめんどうなほど丈夫な素材だった。ひきちぎると端がほつれるように切り目が入っている。 

Security Policyに違反した場合のpenaltyには当該試験の無効だけでなく、将来の試験資格の剥奪、Character and Fitness committee への報告等が並んでいる。手続きでトラブルのが一番怖かったので試験終了の合図と共に筆記具から手を離し、以後一切疑われるような動作はしないようにしていた。2日目の午前の試験終了後、答案提出のために通路に並んでいたとき、ふと見るとアジア系らしき女性がまだ答案を書いている。一体何をしているのかと呆然と見ていたらproctorが来て鉛筆を置きなさい、と指示した。彼女が鉛筆を置いて立ち上がろうとしたらproctorは動かないで、委員会に報告をします、と言っていた。
アジア系はルールに対してルーズなところがあるのだろうか?
その日の午後の試験では試験終了の合図と同時に全員起立を指示された。

この試験後、日本の大学入試で携帯でカンニングをした人がいるとのニュースを見た。試験会場に携帯の持ち込みができるというのに驚いた。規則がいいかげんなのか入り口の所持品検査がいかげんなのか。持ち込ませていて使わないか試験監督に受験生を見張れと言うのに無理がある気がするが。それとも日本では携帯はいついかなるときも肌身離さないものという常識でもあるのだろうか?と思っていたら高校の先生が、入り口で受験生の持ち物検査ができるのか、などとコメントしているのを見てあきれた。さらにカンニングをした受験生を憐れみ、告訴した大学を批判する意見がでるにいたっては、アジア的なんだろうなと思う以外に理解のしようがなかった。きっと、ルール違反はアウトという正義の感覚は日本人の感性に合わないのだろう。

2011年11月22日火曜日

Summer days in Albany


New York Bar Examinationは7月末の2日間だった。夏である。

San FranciscoBarbriの講義はSt. Mary Cathedralの地下で行われていた。(もっともこのCathedralは急斜面に建っているのでもしかしたら1階なのかもしれない。)近代建築と伝統的な教会建築とが融合したようなこの教会は天井のステンドグラスも美しいのだが、夏のSan Franciscoは寒い。とりわけ教会の地下は寒い。
隣の大講義室ではCalifornia Barlectureliveで行われているが、New York Bar courseは受講者が数が少なく、小さな部屋でビデオ講義だ。ひっそりと薄くらい部屋で10名程度でビデオを見ているのが気分的にわびしいだけでなく、時に寒くて指がかじかんでノートがとれない。
そんなSan Franciscoから来ると太陽の降り注ぐAlbanyの町は嬉しい。夕方、日の当たるテラスでピザを食べていたら店の女の子が暑くないかと尋ねたので、San Franciscoが寒かったので太陽を楽しんでいると答えると、信じられない様子だった。

時差の調整もかねて、試験の2日前にAlbanyに到着するようにしたが、要点をまとめたノートとカード、それに試験直前にBarbriが配布してくれた最新判決の要旨集くらいしか持って来なかったのですることもなく一人で散歩をしていた。

Crown Plazaの近くにStarbucksが一軒。坂を下るといくつかのCafepubが並んでいる通りが1つ。周辺には江戸末期から明治初期の創業年の刻まれた小さな銀行の建物と建国以前からの教会がたくさん。坂を登るとお城のようなCapital Hillとそれを取り囲むように並ぶNew York政府の高層ビル群。夏のせいか、あるいは議会が開催されていない時期だからか、休暇中の店が多くなんだか閑散としている。この町で見かけるのはほとんど受験生ばかりのようにさえ思える。
http://www.albanyny.org/home.aspx

Mayと私は試験終了日の翌日の夕方の飛行機でSan Franciscoに帰る予定だったので、半日町を観光することにしていた。朝一番に観光案内所に行って地図をもらうと、AlbanyにはThe first church http://www.firstchurchinalbany.org/ などの歴史的建物や New York州及び連邦裁判所などの施設があることがわかった。さらに町では彫刻のイベントも開催されていて、町のあちこちにリアルな彫刻が置かれている。高速道路をまたぐ陸橋を渡るとHudson River沿いの公園にも行くことができる。公園には見たことのない大きな鳥の群れがいる。たぶんgeeseなんだろう。

午前中は博物館やCapital Hillの美しい階段などを見て、午後は公園でのんびり過ごした。公園では音楽祭をしていた。
途中、是非行ってみたい、ということでだめもとでNew York Court of Appeals(New York 州最高裁判所。http://www.courts.state.ny.us/CTAPPS/
なおNew York 州でSupreme Courtは事実審裁判所。http://www.nycourts.gov/supctmanh/General_Overview_of_the_Court.htm
ちなみにCaliforniaではSupreme Courtは最高裁。http://www.courts.ca.gov/supremecourt.htm)を訪問した。
裁判所は夏季休暇中だったが入り口でNew York Barの受験生だというと警備員がlaw clerk を呼びに行ってくれた。柔らかな物腰の、知的な雰囲気の若い女性が現れ、法廷を案内してもらった。なるほどこれが東部のエリートというものか。
写真は帰り際彼女が記念にとくれた鉛筆。New York State, Court of Appealsと印刷してある。