2011年12月5日月曜日

Pearl Harbor


最初にアメリカ人から “Pearl Harbor”という言葉と聞いたのはConstitutionの授業だった。この単語をアメリカ人から聞いたらどんな気がするだろう、と考えたことはあったが、現実に、December 7th, Sunday morning,と聞いたら、そんなことをしたら怒るだろう、というのが正直な感想だった。ただ、どうしてこんなことになったのか、記憶を手繰っても中学、高校の歴史の授業できちんと習った記憶がない。思い出さないだけか?

HawaiiCaliforniaは近い。Spring recessを利用してLaura, Alena, Stephan and MayHawaiiに行って楽しそうだった。というわけで、Hawaiiに行ってみたところPearl Harbor行きのバスを見かけたのでArizonaを見学することにした。

予想以上に充実した施設だった。資料館が2つ。戦争が始まった原因、当時の戦力の比較、攻撃直前の様子から攻撃による被害状況等説明がなされている。アメリカの施設なので一面的な説明がされているのかと思っていたが、入ってみると客観的で公平な説明だと感じた。日系人が多いためだろうか。ロンドン軍縮会議、ABCD包囲網等、高校で習ったのを思い出した。石油。国家の血液であり、これなくしては経済活動を維持することも戦争をすることもできない。アジア、太平洋地域から手を引くか、さもなければ死ねという通告に等しい。西へ西へと拡大してきたアメリカはCaliforniaを手中にし、ついに念願の太平洋へと進出する。

アメリカ側の説明なので、日本がどういう意思決定プロセスで、どういう勝算があって石油なしに軍事的冒険をすることを決断したのかはわからない。開戦時にアメリカを上回る兵力だったということなので、奇襲でアメリカの太平洋艦隊を使用不能にすれば勝てると思ったのだろうか?石油なしで?山本五十六連合艦隊総司令官は、やるからには狙いはHawaiiではない、本土だ、と述べたと解説文にあるが、なんて気宇壮大なんだろう。

全くの不見識で、帝国海軍の攻撃が2波、合計350余機に及び、アメリカ側の死者約2500名(この施設での慰霊は3000名に及ぶ)とは知らなかった。日本からの飛行ルートを見た時、よく飛んだな、と、大変だったね、えらかったね、と抱きしめてねぎらいたいような気持ちになった。そして今なお油を流出させながら沈んでいるArizonaの犠牲者に対してはただただ哀悼の気持ちを抱くばかりである。

Negotiationの教科書には、日本と戦争をする気などさらさらなかった大統領を説得して開戦を決断させたエピソードが載っていた。このときのテーマは「情熱」。Negotiationは冷静に、というのが普通だが、ときには情熱的な説得が功を奏する、という説明の具体例。

太平洋の覇権をかけて本当に戦争をする必要があったのか、双方の犠牲者の数を思うと、そう思う。この戦争に勝った方が太平洋の安寧に責任を持つことになるということだったのだろうな、と思ったが、いずれにしても金のかかる話で、結局のところ現在日米が協力してその任にあたっているのではないだろうか。それならなおさらどうして、と思う。

説明の最後は、アメリカは終戦後、敵国の日本の復興と民主化を援助した、と結ばれている。高齢のアメリカ人女性が“That's America” とつぶやいていた。

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